第四章 ジェイムズ経験論の意義

第四節 ジェイムズと現代 ─結語にかえて─

 ジェイムズ経験論とは十九世紀後半から二十世紀初頭に人間の歴史にあらわれたウィリアム・ジェイムズという一人の人間が死ぬまでに彼の精神の中で醸成してきた考えを後世の人間がそれぞれの尺度でもってとらえなおしたものの総称である。
 われわれはなぜに「ジェイムズ経験論」という形で砂浜の中の一粒の砂にも等しき一人の人間の考えをわざわざ抽出して、仰々しく詮索する必要があるのか。われわれはたとえば彼が当時のあるいは後世の人間に多大の影響を与えたからであるとか、彼が多くの人間の共通の考えを代表して述べているからであるとかいう如くにして、かかる詮索の弁解を用意するかもしれない。このことはたしかに現代人であるわれわれに学問的意義および実践的意義を教えてくれるという大義名分を供するものには違いないだろうけれども、それは決定的な答えにはならないだろう。なぜならばそのことでもって論者がなぜに「ジェイムズ経験論」をとりあげるかという解答にはならないからである。今やそれが必要な時なのである。従って論者はこれまでの論述に責任をもつためにも、論者自身の立場をあきらかにしておく必要があるだろう。
 ちなみに論者はこれまでにジェイムズ経験論を私心なく省察し、時にはそれに全く賛同する形で論述してきた。しかしそれは論者自身の狭い学問的視野と野心に基づいているために、これまでの論述内容でもって「ジェイムズ経験論の諸問題」が一応完結せられるのではないのか、という甘い期待があったからに他ならない。これは論者の完全なる錯誤である。論者は何もジェイムズ経験論の存在意義を認めるために労を費やしたのではない。結果としてジェイムズ経験論を認めるように自らを義務づけてしまう破目においこまれてしまったのである。
 このような弁解は第三者にとっては失笑の種となる以外のなにものでもない。第三者はこれまで想像もつかぬ忍耐力でもって論者のペースにあわせてきたのは、論者の主張がどこにあるのかを知ろうとしてきたからにほかならない。にもかかわらずここで論者が第三者を裏切るたよりなさを告白するに至ってはもはや本書が見捨てられるに値するといわれねばならない。それ故に本書は第三者になんら訴えかけるものをもっていなかったなら(そして論者の希望でもある、反面教師として役だつということすらもなかったなら)ただちに解体され、古新聞と一緒に、二束三文の値うちで売られていくべきなのである。だがここで論者のわがままが許されるなら、その許されついでに、論者はより一層主観性をあからさまにし、それでもって本節を構成し、本書をしめくくろうかと思っている。
 さて論者は一体ウィリアム・ジェイムズをどのような人間としてとらえ、それを現代人にアジテートしようとしているのであるか。論者の主観にたてば、ジェイムズ経験論は、前にも再三述べている如く「個性の神聖さに対する民主主義的尊敬」の念に満ちた、強烈にアメリカ的な、しかもそれでいてある意味ではきわめてヨーロッパの近代思想の申し子としての特徴をもつ一種の万華鏡である。しかもそれはいずれ現代人の手で壊されるべき、否すぐにも壊されるべき、万華鏡としてあるのである。
 われわれは以前ジェイムズ経験論の思想史的背景に、J・E・スミスの指摘による三つの信念のある点を上げた。それによればこれらの信念は文字通りアメリカの哲学の精神としてみられ、且つジェイムズ経験論そのものでもあった。論者はジェイムズ経験論がうち壊されねばならないと考えるのは、今やアメリカの精神は(時代遅れという意味からも)総体として否定されなければならないと考えるからである、ひいてはヨーロッパの近代思想といわれるものもまた否定されるべき時期にきていると判断するからである。
 即ち論者は、アメリカはヨーロッパのアンチテーゼとして、そしてヨーロッパの鬼子として建国されたけれども、アメリカはヨーロッパの弱さをカバーする先兵として存在していたと考える。同様に思想界においてもアメリカの精神はヨーロッパにおいて主流をしめていた近代哲学の否定の上に誕生し、そしてそれを否定しきれずにその残骸をさらす形で、さらにアメリカの社会的力を背景にして、その残骸を他の思想よりもより一層の輝きをもつものとしておしつける形で生成してきたといえるであろう。
 論者はジェイムズ経験論こそ、このアメリカの精神の守護神であるときめつけている。ジェイムズ経験論の中に認められるヒューマニズムの精神はアメリカの精神として結実することによってはじめて生彩をおびてくるのであり、もしアメリカの社会をパトロンとしなかったなら、ジェイムズ経験論におけるヒューマニズムはその名に値せぬ単なる負け犬の遠吠えに終わっていただろう。社会理論としてみられた場合、ジェイムズ経験論はアメリカの社会によって市民権を得ているのであって、それ故にジェイムズ経験論はアメリカの社会を擁護する以外のいかなる思想的役割をもはたしえないのである。
 さてこのことについてわれわれはもっと思想の動きの中の問題としてみつめてみよう。すでに第一章第四節においてあきらかにされている如く、ジェイムズ経験論は近代哲学を批判し、それをのりこえようとする呷吟する意図をもっている。ジェイムズがなぜに近代哲学をのりこえようとしたのかは、そこにおける合理主義的偏重と主知主義的信奉が人間の存在を抑圧すると判断するからである。
 そのこと自体は正しい。なぜならばそれらはどちらかといえば機械論的な考えを人間におしつけているからである。問題なのはなぜにその意図がアメリカの精神として結実し、彼自身のいうところの「個性の神聖さに対する民主主義的尊敬」の表明とならなければならないか、ということである。
 ジェイムズは、かかる表明が抵抗もなくアメリカの社会の中にうけいれられ、そして人間の良心として考えられているということが近代哲学のもつ機械論の魔力とエゴイズムの犠牲の代償として機能していることに気づかなかった。いいかえればジェイムズ経験論が社会理論として大いに歓迎され、もって利用されていることに気づかなかったのである。
 このことは客観的にみればジェイムズ経験論がヨーロッパおよびアメリカの、即ち西洋の思考の悪しき部分の尻ぬぐいの役をおわされていることになっているのである。それはいかなることを意味するのであるか。
 われわれは以前近代哲学の主流が機械論と主観主義であるという点を知った。それ故近代哲学をのりこえるとは、これら二つの流れがもはやわれわれ現代人の思考に通じなくなり、あたかも箍として感じられるに至る時に、これらを否定すること、厳密にはこれらの人間に対する抑圧的な部分を抹殺することにほかならない。
 しかるにジェイムズはこの機械論と主観主義を単に調和させることでもって、一つの超克が可能であるという考えに基づき、すべてをわれわれの精神内部の操作の問題に還元することによって、自らの安らぎをえることに注意を払った。なるほど機械論と主観主義はわれわれの思考における二つの極端な考え方として位置づけられはする。とはいえジェイムズは機械論と主観主義は単に思考の問題に留まっているのではなく、なんらかの社会的意味をもった、そして社会的存在の反映になっていることを無視していたのである。
 従ってジェイムズにとって近代哲学をのりこえるとは、近代哲学における思考形態が自己の感情と不整合な関係にあるという自覚から、近代哲学を自己の感情に同化させようとすることであって、近代哲学の背景としての社会的存在の様々なあり様に関係することではなかったのである。
 それでは機械論と主観主義はいかなる社会的存在形態をともなっていたのであろうか。機械論は合理的な社会機構と一つになっている。そこでは、感性が自然の本性として機能するように、人間の理性が一つの機構にふさわしく働くのが本性的役割であるかのように考えられ、適応と順応と理性に基づく諸過程への認容が機械論の重要な使命であるかのようにうけとられている。即ち機械論は現代社会の機構そのものをささえる精神となっているのである。
 論者はかかる機構を否定するものである。なぜならば合理的社会機構とは人間の主体性と人間的存在を失わしめる過程のなかに見ようとするからである。われわれは合理的社会機構がすべての人間の同意する一つの社会的存在形態であるという幻想性のためにそれに対して無批判的でありすぎる。しかもその無批判の根拠は実はきわめて情緒的なものであり、合理的社会機構から抑圧を感じさせられる部分を一つの情緒的満足(たとえばその機構に自ら一致させようとする意欲にともなう快感のような)でもって償おうとする個々のエゴイズムにほかならない。
 主観主義は、このエゴイズムがすべての人間に共通して存在しているにもかかわらず、それを全く個人的思考の次元においてとらえようとする独善性をもっている。主観主義は観念の世界においては完璧なまでに自己自身を絶対者として想定している。主観主義は機械論に少々ものたらなさを覚えた人間が観念の世界において、個々に人間的な生を満喫しようとする結果、現実的にはきわめて自利的打算的な人間にならざるをえない、という一つの事実を伝えている。
 結論的にいえば機械論と主観主義は抑圧的部分である現代社会とエゴイスティックな人間の存在を根拠にしているのである。ジェイムズは近代哲学の超克を必要とする現代人一般のこのような社会的客観的基盤を理解できなかった。近代哲学をのりこえるためには、即ち機械論と主観主義をのりこえるためには、それらが社会的悪であるという認識をともなっていなければならなかった。かかる悪は客観的なそれであり、ジェイムズの考えるように、自己の欲求の充足に障害となるものという単に心理的なレベルで考えられるべき対象ではないのである。
 その意味では機械論と主観主義は分裂し抑圧された人間存在の、心的よりどころとしての、それぞれのかたわれであり、従ってそれらは社会的悪とみなされなければならないのであり、かかる観点から、真の人間的存在に回復させ、社会的人間の使命をはたさせるところの、社会的実践としての闘争に参加することによって近代哲学の超克がなされうる、と考えられねばならなかったのである。
 この時に注意されるべきはジェイムズの社会的政治的参加はあくまでも自己の道徳的立場、即ち彼の個人的な生き方、を貫くためであり、そのために社会的、政治的事件は彼の心理的な奮闘努力の素材にされているにすぎないという点である。これらの事件に対するジェイムズの態度はすべて「知識人」的な道義感に基づいているのである。
 C・W・ミルズはジェイムズの政治思想の二つの中心的な思考様式を「『情念』と調停的『理性』の対極化、及び政治史の原因の人格化」
(一)としてみているが、この評価は全く正しいだろう。ジェイムズは、ミルズのいうように、ほとんどすべての問題を、「理想情念が作用しうるところの心理学的レベルで説明しようとし、心理学的、道徳的なことばですべての争点を記述している。彼は、経済的に、あるいは歴史的に考えることができなかった。あらゆる文脈において、社会的、政治的問題についてさえ、かれの仕事は伝記的であった」(二)のである。
 このことは何を物語っているのであるか。それは社会に対して抱いているジェイムズの関心は彼の個人主義に対する忠誠心の強さによって、たかだか彼のまわりの人間に同情をよびおこす効果をもっているだけで、社会改革の運動にまでもっていくだけの力をもっていない、ということである。
 この指摘からもあきらかなように、ジェイムズが近代哲学をのりこえようとする仕方もきわめて情緒的なものでしかない。ジェイムズは結局、軟らかい心と硬い心を使いわけているというオルポートの指摘、あるいはジェイムズのあの執拗なまでの純粋経験の存在の主張にもかかわらず、彼自身たえず実在論へと帰依する傾向をもっていたというペリーの批判は、ジェイムズのビジョンを支えるものが情緒的であり、従って根なし草的なものであることの証しでもある。
 なるほどジェイムズは機械論や主観主義を批判する。ジェイムズのその根拠はそれが人間の生に内在的intimateでない、という点にある。即ち機械論を批判する場合、それが人間の生物学的な存在にとって都合の悪い考えであるからであり、従ってただ主意主義的に行動することが人間の生の働きを十全的たらしめるという生物学的特徴を強調するのみである。また、主観主義を批判する場合、それが体系的観念論として機能するために、われわれの感情に直接的に訴えかけるものをもっていないと考えられているからであり、従ってあの「実際的結果」を重視するプラグマティックな事物のとりあつかい方を支持するのみである。
 だがよくみればジェイムズの機械論と主観主義の超克の仕方はそれらについてのきわめて部分的な認識に基づいていることが判明される。それ故にジェイムズの行った超克はそれらを適当なバランスに保たせることにしか役だっていないのである。そこではジェイムズは機械論のもつよそよそしい客観性を内的な心的機能の作用によって、即ち単なる意志の働きによって容易にうちこわしうると考えている。さらに主観主義の超克においては、プラグマティズムというある種の実在論的な立場にたち、みえるがままの事実が一つの客観性をもっているという形で、それを操作してしまう。
 このようなジェイムズの考え方は、結局、機械論を認め、主観主義に陥ってしまうことになりはしないか。この証左は、もしわれわれが本節のような立場にたつならば、少なくともジェイムズの考えに忠実になって展開されたこれまでの論述の中にも存するといえるだろう。即ち、これまでの論述そのものが機械論的で主観主義的な内容をすでにもっていたのである。
 ジェイムズの機械論と主観主義の超克の仕方をもっと図式的に考えてみた場合、それらが互いに相対立しているようにみえる点に注目して、機械論をのりこえる時には主観主義の立場に、主観主義をのりこえる時には機械論の立場にジェイムズはたっているともいえるであろう。まさにここにジェイムズの根なし草的な考えのあらわれが見られるのである。
 われわれはこれによく似た例を純粋経験についてのジェイムズの考え方に見ることができる。そこでジェイムズはせっかく考えと事物の二元論的な考えを超克した「経験」という概念を導出しながら、ペリーのいうように、考えの独自性と非分割性、及び事物の共有制と永遠性の亡霊になやまされ、経験というものを超克されたものの結果という形で、確定することができなくなってしまったのである。
 このことは、逆に、超克されるべきものが超克されないでいるばかりか、超克されえないものだということを認めることにはならないだろうか。即ち、機械論と主観主義は依然として亡霊として残っているのであり、ジェイムズの場合は、それらを間接的に支持しているということを物語っているのである。これはわれわれにとって重要な意味をもっている。いいかえれば、ジェイムズは近代哲学を超克しようとしながら、逆に近代哲学を擁護しているのであり、しかも、なまじ近代哲学を超克しようという批判的姿勢をもっているだけに、ジェイムズの果たす役割はある種の複雑さをもっている。それは結果的には近代哲学のもつ欠点をジェイムズのような考え方でもって被いかくすという効果を与えているのである。従って近代哲学の側から見れば、自身がもっているところの、そして切りすてられてもよいところの欠点が、ジェイムズの考え方によって捨象されたのにすぎず、かえって、自身の本質的な部分はみがきをかけられたものとしての地位を保つようになった、といえるだろう。
 勿論、それは近代哲学の超克の仕方のまずさにも原因しているだろう。しかし、かかる結果をもたらしたなによりの原因は、ジェイムズの言葉を逆手にとっていわせてもらえば「ビジョン」のなさにあったのではないだろうか。厳密にはそれはジェイムズの人間に対するビジョンの狭さである。ジェイムズはたしかに近代哲学を超克する必要性を感じていた。しかしなぜそれを超克しなければならないか、について、そして現代人としてそれを超克しなければならない社会的背景について、みきわめていなかった。ジェイムズにとって人間がもつべきビジョンとは、感情のレリーフをあからさまにする状況を確立することであり、それが歴史性をになっているかどうかではなかったのである。
 それではジェイムズがそれらを超克した結果、想定された「純粋経験」が一体いかなる意味をもっているというのであろうか。なるほどそれはジェイムズによれば、たしかに感情のレリーフが存在する状況であるかもしれない。しかし、この考えでもってジェイムズが近代哲学をのりこえていると考えるのならば、独りよがりもはなはだしいといわれねばならない。そしてもしジェイムズが、近代哲学が彼の住んでいた社会に与えている影響を知っていて、あえて彼の考えている「純粋経験」の考えでもって、近代哲学の欠点を補っていると考えていたならば、彼は社会の悪しきアジテーターとして責任を問われなければならないであろう。
 近代哲学がのりこえられねばならないのはもはやそれが単に観念においてのみならず、社会的にも、人間を抑圧する有機体そのものになってしまっているからである。そして、近代哲学をのりこえる過程において、近代哲学を支えている社会体制をのりこえた、新しいビジョンが明確にされていなければならないのである。
 この観点にたてば、感情のレリーフをきわだたせる状況の創造など幻想であり、幽霊のようなものである。なぜならば、かかる状況は単に個人によって創造されるからであり、又仮令創造されたとしても、彼の近代哲学の超克の仕方の論理と同様に、根なし草であり、物質的・客観的保証をうけたものではないからである。
 これは何に根ざしているのであるか。ここでわれわれは再びC・W・ミルズの考えを引用してみよう。彼はジェイムズの「一般的思考様式を貫く三つの傾向ないしは見解」
(三)を指摘する。その第一は、ジェイムズ思考のすすめ方が広い意味において「合理主義的」であるという点である。その第二は、漸進的且つ中道的であるという点であり、その第三は、個人主義的忠誠に満ちている点である。
 第一の点において、われわれは従来の論述の流れと逆の主張がされているかのように感じられる。しかしここでミルズが考えていたのは、思考の過程のよどみのなさを保証するものとしての所謂合理的機構(専門職組織)をジェイムズが「社会の積極的モデル」として用いているということであろう。ジェイムズにとって合理主義とは一つの感情として、即ちわれわれの思考の過程によどみのないという感じとして機能する。それ故社会的には、かかる「個人の実質的合理性」をみたすものとしての合理的機構なるものが社会のモデルとして理念化され、そこにおける個人の能力の最大限の発揮が、ただちに正当な社会的な意味をもちうる、と考えられてくるのである。従ってジェイムズの合理主義的見解とは合理性の感情、ないしは個人の実質的合理性にうらうちされているのであり、無定見にも、その中にてジェイムズは「自分の政治的信念や願望をおこう」
(四)としているのである。このジェイムズの考えは、個人それ自体をとりだせば、情熱的、奮闘的な人間の活動の賛美になっているのであるが、社会(機構)の観点から見れば、それへの調和を志向していることになっているのはあきらかであり、そこにジェイムズの保守的性格が露呈されているといわれねばならない。
 第二の点は、「ジェイムズのすべての思考作用の基礎」
(五)である。これはいうまでもなく、プラグマティズムの精神として機能している。プラグマティズムは他方改善論と結びついている。即ちそれ以前にあるものと次に生じるものとの媒介を任務としつつ、徐々によき方向にむかっているという考えをもたらしている。そしてジェイムズはたしかに次のようにいう。「私は心の底から平和の治世とある種の社会主義的平均の漸次的到来を信じている。」(1)
 ジェイムズのこの信念は、彼の思考様式が漸進的であり、中道的である証左であり、現在の常識や既存の信念を前提にして社会を改善していこうとする意図をあきらかにしている。この意図は又真理についてのジェイムズの考え方に由来している。ミルズはそれを中道的態度のあらわれとして次のジェイムズの言葉を引用する。「われわれは作用する理論をみいださねばならない。そしてそれはきわめて困難ななにかを意味している。なぜならばわれわれの理論はあらゆる以前の諸真理とある新しい諸経験とを媒介しなければならないからである。それはできるだけ常識と既存の信念をかき乱さないようにせねばならないし、又、正確に検証されうる、ある可感的な終着点に導かねばならない。」
(2)
 ジェイムズのこれらの考え方は、所詮、現実的なものとの調停を意図しているにすぎない。そしていかにそれに迎合していくかが精神の葛藤として肯定的に認められているにすぎない。漸進的で中道的な思考の作用は第一の点と同様、われわれの個人的な合理性の感情による同意を前提にしているのである。
 さて最後の第三の点については「アメリカの知的・政治的伝統の中心部とジェイムズとをかたく結びつけている結び目」(六)としてミルズは評価する。即ち、ピューリタニズムと啓蒙運動が個人主義のあらわれとして、又アメリカ的生活や思想の主流としてみられているし、ジェイムズはそれらを強固なものにしたというのである。その結果何が導出されるのであるか。ジェイムズにとっては個人の存在がすべてであった。それ故に彼のいう「多元的宇宙」は個人の構成によってはじめて意味をもち、個人の存在とりわけ創造的活動の主体としての個人の存在がなければ、多元的宇宙は一切が無に帰される非実在的なものとなってしまうのである。
 ここでわれわれはかかる宇宙を世界ないしはもっと現実的に、社会としてとらえることができよう。してみると社会と個人の関係はジェイムズにとっては決して相補的なものでないといわれよう。即ち、社会(制度)はどのような規模であり、どのような内容をもつものであれ、あくまでも、二次的、従属的なものでなければならないのである。いわば社会は個人の存在という基本的な事実が無視されないものとしてあり、それのみか、個人の特性が最も尊重され、最大限に発揮される手段の場でさえあるのである。
 ミルズは、さらに、ジェイムズの「個人主義、寛容、経験主義、自主無干渉主義の混合を示す教訓的な文章」を『信ずる意志』の中からみいだしている。「われわれの誰も他人に対して拒否権を発動すべきではなく、非難の言葉をなげかけるべきではない。われわれは、その逆に、思いやり深くそして心からお互いの心的自由を尊敬すべきである。その場合にのみわれわれは知的共和国をもたらすであろう。その場合にのみわれわれはそれなくしてはあらゆるわれわれの外的寛容が魂のないものになる内的寛容の精神、又経験の栄光である内的寛容の精神、をもつであろう。そしてその場合にのみわれわれは実際的な事柄同様、思索的事柄において、自らを生き且つ他を生かしていくであろう。」
(3)
 さて、ミルズによって理解されたジェイムズの思考様式の三つは、論者のこれまでの論述の視点を見事に代弁してくれている。ミルズはジェイムズの考えを「心理学的リベラリズム」にみているが、まさにその通りである。だがここでわれわれはミルズの視野をもう少し拡大する必要があるだろう。
 それは何を意味しているのであるか。それは「心理学的リベラリズム」は現代においては否定されるべき悪としてみなされねばならないという点である。たしかに「心理学的リベラリズム」は自由と寛容と進歩の観念をわれわれに提供してくれてはいる。しかしそれらは個人の精神の開発をよびかけるところのまやかしである。なぜならば、仮にそれらがわれわれの精神の中に具現されたとしても、それは心的豊かさを意味しているだけであり、たえず客観的、社会的なものとのディレンマに悩まされつづけるからである。逆にいえば「心理学的リベラリズム」は常に外からの抑圧に迎合するものであり、その結果、そこからの痛み止めの処方箋を一時的にこしらえあげるにすぎないのである。
 かかる認識は、実は、ミルズの指摘するジェイムズの思考様式が、近代的な考え方の一つの典型として機能している点に基づいている。即ちわれわれはこの三つの思考様式が近代哲学の主流的な考えの帰結として機能している点に気づかねばならない。それ故に「心理学的リベラリズム」が否定されなければならないのは、かかる三様式が現代人にとってのりこえられるべき悪としてはっきり認識されてきているからである。
 とはいえ近代哲学が三つの思考様式を導出しているという考えにかなりの飛躍のあることは否めない。しかしながら、近代哲学がその成立の当初、かかる三つの様式を社会的善としてみなしていたのは事実であるという点、そして、合理論であれ、経験論であれ、常に人間の問題が吟味されている中で、三つの様式がそれぞれにとりいれられてきたという点を考えあわせれば、近代哲学という世界と三つの思考様式に支えられた現実の人間的生活との関係が皆無であったとはいわれえないであろう。むしろ三つの思考様式が近代哲学のあだ花として咲き、現代人に対して次第に抑圧的に機能していくようになったとみられるべきであろう。
 われわれはここにジェイムズ経験論が近代哲学をのりこえられないばかりか近代哲学の現実的な様相の先兵として働いている姿をみることができよう。近代哲学を乗りこえるとは単にその特徴である主知主義的傾向を否定することではないのである。その主知主義に対抗する反主知主義、即ち主意主義をいくら強調してみたところで、それが三つの思考様式に基づいている限りにおいては、近代哲学は決して社会の悪徳弁護士としての地位を放棄するものではない。それ故にジェイムズが近代哲学の二大主流である機械論と主観主義を否定してみたところで、その二つとも同時に抹殺することはできないのである。なぜならば機械論と主観主義はシーソーの両端のようなものであり、一方をおさえれば他方があがるように、ジェイムズは二つの主流のいずれかをおさえることによって、近代哲学そのものをおさえていると錯覚しているからである。
 なるほどこの作業に専念すればシーソーは激しくゆれ動くかもしれないが、従ってそれによって生のダイナミズムが感じられるかもしれないが、しかし、それにもかかわらずシーソーの中心は微動だにしていないのである。もしシーソーに乗る現代人がその行為をするにふさわしい幼児から大人に成人し、もはやシーソーを不要と感じるに至ったならば、いくらシーソーの端をつついてみても無駄である。それをとり除こうとするならば、それを支えている中心の土台からとり除かねばならない。しかるにジェイムズはシーソーの端にのみ目をむけているのは、自分がシーソーの中心に位置しているということを忘れているからである。その結果、ジェイムズ経験論は凡庸な人々をして、とり除かれるべきシーソーの中心から目をそらさせ、目移りのするシーソーの両端にわれわれの注意をもってこさせようとするかの如き、役割をはたしているのである。しかし賢明な人々は激しく上下するシーソーの両端の動きの中で、かえって不動の状態にあるシーソーの中心の存在に気づき、それこそ、シーソーの本質であり、それをとり除くことこそ、不要と感じられたシーソーの最も適正な処置であると判断できるのである。
 このシーソーの比喩にあらわされる近代哲学に対するジェイムズの考えは、たしかに論者の主観的な見方から派生している。即ちジェイムズ経験論が哲学の立場からではなく、ある社会理論の立場からみられている。その意味では、ジェイムズ経験論は社会理論としては、利用され肯定される側面と、みすてられ否定される側面の両方を同時にもっているといえるだろう。しかし現代社会にとっては後者の方に重きをおく方が、抑圧された人間を救う意味からも、大切であると論者には判断せられるのである。
 それは決してジェイムズ経験論を評価しないというのではない。ジェイムズ経験論がわれわれの精神の弱点をうきぼりにしてくれるという意味において、又、それが現代社会にとって反面教師とみなされるべき一定の価値をもつという意味において、現代人にとりあつかわれるべきであるという点を論者はいっているのである。
 論者のこの主張は何に根ざしているのであるか。近代哲学の超克が決して個人の精神の問題から要求されているのではなく、社会や機構や支配的思考形態による抑圧から解放されたいと考える現代人の欲求から要求されようとしている、という認識に基づいている。その意味ではジェイムズは現代人一般の客観的、社会的基盤を理解できなかった。機械論と主観主義は、個人に解体され、抑圧された社会的人間的存在への思想的抑圧のかたわれであり、従って悪であり、それ故に共に、一挙に超克されねばならなかったのに、ジェイムズは近代哲学の超克をいわば機械論や主観主義の考えの正当性を導きだすための自然的原在性の解明(即ち心理的事実にすぎない純粋経験の設定)としてしまったかのようである。
 そのような自然的原在性の解明とは個人にとっては重要であるかもしれないが、社会的には虚構であるか、それとも事実をありのままにみるという名の現実との一体化であり、調和化であり、機械論と主観主義の与える精神的苦しみの緩和化以外のなにものも結果しないのである。そしてジェイムズの場合の如く、そこにみられる主意主義はそれらの作用の船頭であり、他方主知主義の本来的に与えるよそよそしさの安全弁としてしか機能しないのである。
 「個性の神聖さに対する民主主義的尊敬」はかかる思念の最も現実的なあらわれであり、ジェイムズの生きたアメリカの社会の如き、可能性の形態が残されている土壌のもとでのみ崇高な人間の活動原理にまで高められるのである。しかしながらジェイムズ経験論における主意主義的な考えが西洋の近代思想の尻ぬぐいの役割を果たしているという思想面からの評価を考えてみた場合、ジェイムズ経験論はアメリカの精神をいくらかなりとも息づかせただけで、自らの役目を十分に果たしているのであり、もはやこれ以上尻ぬぐいの役を演じることもないと考えられる。丁度主知主義のチャンピオンであるヘーゲル哲学がほんの一撃をうけることによって「人間存在」の別のあり方をさししめすことができたように、ジェイムズ経験論も又、心理的な次元に留まっている主意主義を解体して、それを現代社会の偏見から解放しようとする人達によって、修正せられ現代人に役だつように組み立てられねばならないのである。
 しかしそれは「ジェイムズ経験論の諸問題」の研究の視点を単に思弁的な哲学の領域から、社会学、歴史学等の分野にまで拡大しなければ、決着がつけられないであろう。それ故、本書でなされた「ジェイムズ経験論の諸問題」の研究は新たな方向に出発の帆をあげなければならないのである。

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